Mag-log in私が口説き直してくださいと言ってから、一時間も経っていなかった。 病室の前が、騒がしい。 足音がいくつも止まり、控えめなノックが続く。最初に入ってきたのは、先ほどの顧問弁護士だった。その後ろに、朔弥さんの秘書、会社の法務担当、広報、警備責任者まで並んでいる。 個室とはいえ、ここは病室だ。 「何が始まるんですか」 「口説き直しだ」 朔弥さんは、当たり前のように答えた。 「私の知っている口説き方と、ずいぶん違います」 「俺も初めてだからな」 不安しかない。 ベッド脇の机では足りず、看護師さんに借りた折り畳み机まで運び込まれた。ノートパソコンが開かれ、書類が並べられていく。 「役所へ提出された書類の経路をすべて確認してくれ。原本に触れた人間、保管場所、持ち出された日時もだ」 朔弥さんの声から、先ほどまで私に甘えていた気配が消えている。 「母が会社の名前を使って連絡した相手も洗い出せ。今後、母からの指示はすべて俺の承認がなければ動かすな」 「承知しました」 「親族へ何を伝えたかも確認を。訂正が必要なら、今日中に俺の名前で出す」 指示が途切れない。 秘書が記録し、法務担当が必要な手続を確認する。警備責任者は、病院だけでなく退院後の警備について説明を始めた。 「朔弥さん」 「どうした」 「会社へ行ったほうが早くありませんか」 「君を一人にする気はない」 「だからといって、会社を病室へ呼びます?」 「俺が行けないなら、来てもらうしかないだろう」 少しも疑問に思っていないらしい。 法務担当が、遠慮がちに口を挟んだ。 「明日の臨時役員会ですが、本社でよろしいでしょうか」 「いや」 朔弥さんは、私を見た。 「場所はあとで連絡する」 「ここではやりませんよ」 「さすがに退院後だ」 「やる気だったんですか」 否定しない。 反省はしていても、加減を覚えたわけではないらしい。 「ひとつ聞いてもいいですか」 「ああ」 「これは、冴子さんへの反撃ですか」 病室にいた全員が、一瞬だけ動きを止めた。 朔弥さんは、机の上の離婚届へ目を向ける。 「違う」 低い声だった。 熱のこもった目で、私だけを見つめている。 「君を取り戻す準備だ」 私の胸だけが、場違いな音を立てた。 こ
映像通話が切れたあと、冴子からの着信はすべて拒否した。 朔弥さんは、すぐに病室を出ていこうとした。 「どこへ行くんですか」 「母さんのところだ」 「行って、何をするつもりですか」 「二度と君に近づけないようにする」 「もう会社にも病院にも入れないようにしたでしょう」 「足りなかった」 ドアノブへ伸びた手に、力が入っている。 今の朔弥さんを冴子へ会わせたくなかった。 「戻ってください」 「だが」 「お義母様と話しても、離婚届は消えません」 朔弥さんは動かなかった。 「朔弥さん」 私がもう一度名前を呼ぶと、朔弥さんはようやくドアノブから手を離した。 戻ってくる足取りは重かった。ベッド脇の椅子へ腰を下ろすと、両手を組んだまま俯いてしまう。 怒っているのだと思っていた。けれど、固く結ばれた唇を見ていると、それだけではない気がした。 母親に妻を傷つけられ、自分で書かせた離婚届まで使われた。朔弥さんも、傷ついているのかもしれない。 私は手を伸ばし、彼の髪を撫でた。 普段なら誰にも止められない人が、今日はされるがままになっている。 「真尋」 甘えるように名前を呼び、私のお腹を避けて腕を回してくる。肩口へ顔を埋めたまま、離れようとしなかった。 お腹の子のためにあるはずの母性本能が、なぜか戸籍上の元夫にまで向いてしまった。 *** 午前九時すぎ、顧問弁護士が病室へ来た。 机へ並べられたのは、家庭裁判所へ出す書類と、役所から取り寄せた離婚届の写しだった。 夫の署名。 妻の署名。 証人二人の署名。 間違いなく、私たちが書いたものだ。 「提出された時点で、お二人に離婚意思がなかったことを確認できれば、無効を求められます」 弁護士が、申立書を私たちの前へ置いた。 「お二人とも無効であることに異論がなければ、必要な手続を進めます」 「異論はない」 朔弥さんは即答し、ペンを取った。 自分の署名欄を埋めると、私へ差し出す。 「真尋」 私はペンを受け取らなかった。 「少し、考えさせてください」 朔弥さんだけでなく、弁護士まで私を見た。 「離婚したいのか」 「そうは言っていません」 「なら、なぜ」 机には、二枚の書類が並んでいる。 一枚は、私たちが終わるために
翌朝、病室のカーテンの隙間から、白い光が差し込んでいた。 朔弥さんはベッド脇の椅子で眠っている。 会社へ戻るよう言ったのに、役員会の資料を確認したあとも帰らなかった。私の指のあいだに、朔弥さんの指が一本ずつ入っている。恋人つなぎのままだ。 眠っていても、眉間には薄く皺が残っている。ネクタイの結び目は緩み、前髪が額へ落ちていた。 そっと手を抜こうとすると、指に力が入った。 「……真尋」 寝言でまで名前を呼ばれ、動けなくなる。 起きたらからかってやりたい。けれど今は、空いた手で額の髪を払った。 昨夜、惚れ直したと言ったのは朔弥さんだった。 私も同じだとは、まだ教えない。 起こさないよう身体を動かした時、ベッド脇のスマートフォンが震えた。 御門ホールディングスの法務部長からだった。 「朝早くに申し訳ありません。社長はそちらにいらっしゃいますか」 「います。何かありましたか」 私の声で、朔弥さんが目を開けた。 すぐにスマートフォンを受け取り、通話をスピーカーへ切り替える。 「話せ」 『先ほど、区役所への確認が取れました』 法務部長は、そこで言葉を止めた。 『昨日付で、社長と高瀬さんの離婚届が受理されています』 何を言われたのか、すぐにはわからなかった。 「受理って……」 自分の声が、ひどく遠く聞こえる。 「私たち、離婚したんですか」 「していない」 朔弥さんが即座に否定した。 けれど、電話の向こうから返ってきた声は重かった。 『届出には、お二人の署名と証人欄が揃っていました。形式上の不備はありません。窓口へ持参したのは、ご本人たちではなく使者です』 「誰だ」 『窓口で本人確認を受けた人物は、御門冴子様です』 朔弥さんの手から、スマートフォンが落ちかけた。 あの離婚届だ。 私が署名して、朔弥さんへ渡した紙。 屋敷の書斎にしまわれ、記事へ写真を流された、あの原本。 「母さんが出したのか」 『はい。記入済みの届書は、当事者以外でも使者として持参できます。お二人から不受理の申出もありませんでしたので、窓口では受理されています』 「俺たちに離婚する意思はない」 『届出時に双方の離婚意思がなければ、離婚は無効です。ただ、受理された記載を訂正するには、家庭裁判所での手続
朔弥さんは、スマートフォンの画面を伏せた。 「見せてください」 「今は休め」 「その顔をされて、眠れると思いますか」 差し出した手に、スマートフォンが渡された。 解任が決まったわけではない。 一条家との取引継続を求める社外取締役と古参役員が、臨時役員会の招集を請求していた。 理由の欄には、株価の急落、融資交渉の中断、一条家との提携停止が並んでいる。 融資交渉の途中で席を立ち、社長が会社より私的事情を優先した、とも書かれていた。 「こんなに早く……。私の病室へ来たことまで、解任理由にするんですね」 「一条との提携を切った責任もまとめて、俺一人に負わせるつもりだ」 朔弥さんは椅子へ深く座り直した。 私の手は握ったままだったが、通知をもう一度見ようとはしなかった。 「この解任案を受け入れる」 聞き間違えたのかと思った。 「何を言っているんですか?」 「俺が残れば、一条は融資を戻さない。共同事業も止まったままだ。社員まで巻き込む」 「だから辞めるんですか」 「俺を外して提携が戻るなら、そのほうが会社にはいい」 怒っているわけでも、投げやりになっているわけでもなかった。 疲れているのだ。 会社を守るために私を後回しにし、私を選べば会社を失うと言われる。何を選んでも、誰かを傷つけるところまで追い込まれていた。 会社より私のほうが大事だと言った人が、今度は社員のために自分を切ろうとしている。 どちらも本心なのだ。 私はもう一度、通知を最初から読んだ。 「この通知、おかしくありませんか」 「どこがだ」 「後任は誰ですか」 「まだ書かれていない」 「新しい社長が、どうやって融資と共同事業を戻すのかも書かれていません」 会社を救うために社長を替える。 そのわりに、替えたあとの話が一つもない。 「一条家との提携を戻せば、融資は必ず再開するんですか」 「口頭では、そう言っている」 「書面は?」 「ない」 通知を出した役員たちは、社員を守るためだと言っている。 それなのに、雇用を守る約束さえ取っていない。 後任も決めず、融資の確約もないまま、朔弥さんだけを外そうとしている。 私は差出人の名前を見直した。 そして、あることを思いついた。 「朔弥さん」 「何だ」 「
冴子との通話が切れた直後だった。 スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。『赤ちゃんだけ、こちらへ戻してちょうだい』 耳の奥に、あの甘い声がこびりついている。 赤ちゃんだけ。 そこに私はいない。初めから、この人にとって私は、御門の子どもを産むための身体でしかなかったのだ。 下腹部が、きゅっと縮んだ。「痛っ……」 身体を丸めたとき、脚のあいだに生温かいものが触れた。 シーツについた赤を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。 ナースコールを押そうとして、一度ボタンを外した。二度目でようやく押せた。*** 看護師はシーツの赤を確認すると、表情を変えた。「担当の先生に連絡します」 担当の先生は、この病院での診察を終え、クリニックへ戻ったあとだった。「すぐに戻っていただきます。動かないでください」「赤ちゃんは大丈夫なんですか」「まだ何とも言えません」 看護師が病室を出ていくと、急に静かになった。 赤ちゃんが無事なのか、まだわからない。 先生がいつ戻ってくるのかもわからない。 朔弥さんには、知らせずに済ませたかった。 けれど、このまま黙っていて、もし何かあったら。それだけはできなかった。 電話をかけると、彼は一度の呼び出しで出た。「真尋?」 声を聞いた途端、張りつめていたものが緩みそうになった。「……出血しました」「赤ちゃんは」「まだ、わかりません。先生に連絡してもらっています」「今から戻る」 即答だった。 その向こうで、別の声が飛んだ。『社長、今ここで席を立たれたら、銀行側は交渉を打ち切ります。融資が止まれば――』 聞こえた言葉に、現実へ引き戻された。 朔弥さんは、御門を支える金をつなぎ止めようとしている。何百人もの社員と、その家族の生活がかかっている。「来なくて大丈夫です。会社にいてください」 言った瞬間、心細くなった。 本当は、今すぐ来てほしかった。 大丈夫だと言って、そばにいてほしかった。 だけど、今の朔弥さんには、社長としてやるべきことがある。 私のそばにいることではなく、融資をまとめることを選ぶべきだ。 それは、私も彼もわかっていた。 電話の向こうで、朔弥さんは黙った。 遠くで誰かが彼を呼び、別の電話が鳴っている。「朔弥さん。今は、そこにいてください」「……わかった」
「……出入りを禁止しろと?」 「はい。社員へ直接連絡することも、一族会議の名前を使うことも、全部です」 電話の向こうで、朔弥さんが黙った。 遠くで鳴る電話と、社員たちの声だけが聞こえる。 母親を切れと言っている。簡単に答えられる話ではない。 それでも、ここで引き下がることはできなかった。 私は声を落とした。 「……できないなら、私が御門を出ます。今度こそ、子どもも連れて」 電話の向こうで、朔弥さんが長く息を吐いた。 「わかった。本社にも関連施設にも入れない。社員にも直接連絡させない」 電話の向こうで、また朔弥さんを呼ぶ声がした。 「声明も止める。戻ったら、続きを話す」 今度こそ、朔弥さんは私に我慢しろと言わなかった。 *** 朔弥さんとの通話が切れてから、三時間が過ぎた。 窓の外は暗くなっていた。御門ホールディングスから訂正の声明は出たが、最初の声明を写した画像は、もう消せないほど広がっている。 夕食には、ほとんど手をつけられなかった。 ベッド脇で、スマートフォンが鳴った。 表示された名前は、御門冴子。 心臓が速く打ち始めた。 怒りは消えていない。それなのに、すぐには画面へ手を伸ばせなかった。 着信音が病室に響き続ける。 一度、着信が切れた。 すぐに、また鳴り始める。 出ないほうがいい。そう思ったのに、通話ボタンを押した。 「声明を訂正させたそうね」 挨拶もなく、冴子は言った。 「私が辞めると申し上げたことはありません」 「真尋さん、いつまで自分の勝手が通ると思っているの。あなたは御門の嫁にふさわしくないのよ」 「ふさわしくないって、どういうことですか」 「そのままの意味よ。御門のために我慢することもできず、朔弥に母親を追い出させる。そんな人を、御門の嫁とは認められないわ」 「勝手に私の退任を発表したのは、お義母様です」 「私は御門のために必要なことをしたのよ」 頭の中で、ぶちりと音がした。 何が、御門のためだ。 その一言で、私は何度黙らされてきたのだろう。 もう我慢しない。 この人が守ると言いながら何を壊したのか、全部言ってやる。 スマートフォンを握り直した。 今度は、声が大きくなっても構わなかった。
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は







